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ホームプランナーの活動

ちょっとメモランダム(2010年分)


組合や組合メンバーの活動ご紹介、メンバーが出合ったちょっと役に立つ情報や気になること、あるいは日頃の活動の中で感じた独り言などなど、書きとめておきたいことをランダムにレポートします。
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「須田春海採録」出版記念会
 「須田春海採録」全三巻(生活社)の刊行を祝う出版記念会が、12月14日(火)衆議院第2議員会館で開かれました。須田氏本人の出席が可能なのかどうか大変心配していたのですが、ご家族と一緒に来場され、しっかりした表情で、目には輝きがあり、見ている私の方が励まされるような思いでした。
 会は次のようなプログラムで進められました。
 まず、開会の挨拶に続いて、須田春海さんの挨拶文を奥様が読み上げられました。その中につぎのような文があります。
 「『自治』とは、他者の干渉を受けず、自分自身で自己決定することですが、現実はALSになり、他者の協力なくしては生きられないことを日々痛感しています。人は1人では生きられないという事を1分1秒ごとに教えられている毎日です。
 改めて、『自治』とは、他者の協力による協治、協力して治める事であると考えさせられます。」
 その後、お祝いのメッセーシ(菅内閣総理大臣、横路衆議院議長)の披露等があって、ミニシンポ「須田春海さんとの関わりを通じて」となりました。
 ミニシンポのコーディネーターは坪郷實(市民政調代表理事)、パネラーは並河信乃(市民立法機構運営委員)、石毛えい子(市民福祉サポートセンター代表)、辻山幸宣(地方自治総合研究所所長)、日比野登(元東京都庁職員)のみなさんで、それぞれに活動を通じての須田さんとの関わりについて話されました。パネラーの肩書きからも分かるように、市民立法、市民福祉、財政戦争、制度改革等、須田さんの活動は市民自治を柱にした幅広いものがあるのが理解できますし、200人を上回ると思われる参加者の多さからも影響力の大きさを知る事が出来ます。
 この日は、改めて須田さんの日頃の主張を確認できる有意義な機会になったと思います。
(2010.12.15)
「須田春海採録」(生活社、全3巻)
 深い思想性に基づく市民運動家として知られる須田春海氏の採録が出版されています。
 現在は全3巻のうちの第1巻「東京都政」と第2巻「市民自治体」が刊行されており、第3巻「環境自治体」は年内に刊行される予定です。
 第1巻「東京都政」は、東京都政調査会在職中の論文が中心であり、「革新都政とシビルミニマム-美濃部都政3年目の革新的視点」や「私たちのまち東京圏改造構想=首都圏再開発への提言」など須田氏の青春の息吹が感じられるものが収められています。
 須田氏の多彩な思想や行動を支えている基本的なスタンスは、第2巻「市民自治体」に収められている「政策提案型市民運動のすすめ 理念編」に最もよく現われているように思われます。
 市民社会を構成する機構として、政府組織機構、産業組織機構、市民組織機構の3つで捉え、これら3つが相互に補完・代替・牽制しあって社会のバランスが保たれると言うものです。
 このうちの市民組織機構が政府機構の干渉や産業機構からの浸食によって、余りにも弱い存在であるために、市民生活のさまざまな場面で多くの課題を抱える事になっており、その歪みを正していく事が重要であると言うことで市民提案型運動の勧めがなされています。
 時流に流されない、このような深い洞察力が須田氏の魅力であり、多くの人々に信頼されている由縁であろうと思います。

 須田氏が難病ALSの闘病生活に入ってから1年以上が経過しました。
(2010.11.2)
定住社会の方向
 先日、中心市街地と一般市街地との関係はどうなるのだろうかと、ある人に訊ねられました。そこで考えたのが以下です。

 従来は、中心市街地に対して郊外市街地、或いは、大都市に対して地方と言うように大きな括りで、性格や変化の特徴を比較するのが一般的でしたが、そのような仕方で比較するのが段々に有効ではなくなってくるのではないかと云う気がして来ています。
 例えば、中心市街地の中でも建替えが進まなくて寂れる商業地が出て来たり、現在は地方の中山間部でしか見られない限界集落が、大都市内の郊外市街地にも現われたり、と言う現象が出て来るのではないかと思っています。従って、中心市街地の中で、モザイク的に賑やかな場所と寂れた場所が現れるし、一方、郊外部でも小さな区画だけど人を惹きつける場所が出てくるのではないかと思います。後者の例としては、立川の江戸初期以来のケヤキ並木がある五日市街道に面した若葉モール(ひろばを囲んだSCで、2階建て、スーパーと専門店で構成)が思い浮かびます。
 従って、中心市街地に対して郊外市街地はどうなるのかと考えるよりも、むしろ、それぞれの場所がどのようなポテンシャルを持っているのか、交通、住民の特性等のミクロな立地条件を徹底的に分析する方が重要になってくるのではないかと考えての事でした。
 その背景としては、今後人口減少に伴う経済のスローダウンや高齢化が進むと、遠くまで買物に出かける事が少なくなり、身近な範囲内で最大限の効果を求めようとする消費者心理が生まれるのではないかという事です。
 勿論、立地条件は決定的な要因であるので、これからもエキナカとかエキュートのような立地条件を最大限に生かすような施設開発は徹底して進められると思います。しかし、それは立地条件を最大限に生かすと言う点では郊外市街地でも同じなのではないかと思います。
 このような事を考えた背景には、かってギリシャの都市計画家ドキシアデスが提唱した「エキュメノポリス」構想を意識していたからです。この構想がわが国に紹介されたのは1965年(昭40)の事ですが、「エキュメノポリス〜世界定住社会」は、ダイナポリス⇒メトロポリス⇒メガロポリス⇒エキュメノポリスと発展した地域社会の事で、次のような性格を持つとされています。
(1)連続的な定住社会のネットワークをもって地球全体を覆う。
(2)封建時代の都市や都市国家が農村地帯とのバランスを保っていたのと同じように、エキュメノポリスは、田舎の地方と都市のバランスのある静態的な社会となる。
(2010.10.13)
商店街の経営環境
 昭和37年に林周二著「流通革命」という本が中公新書として出版され、大ベストセラーになったことがあります。大量生産・大量販売の流通革命が起こり、置き去りにされる何百万と言う小規模店についてはただ存在するだけだというような表現で位置づけられていました。
 それから、そろそろ50年近くになるのですが、現在の商店街の経営環境はとう捉えればよいのでしょうか。
 「流通革命」で述べられている、わが国社会が近代化していくプロセスの中で、大量生産に対応する流通の近代化が生ずるのは必然であるという視点は正しかったと思うのですが、反面、このメガトレンドを強調する余り、社会が併せ持っている情緒的な側面を軽視していたように思います。その結果が小規模店は当時予想されたような消えていくだけの存在ではなく、現在でも存続しており、社会の中で一定の位置を占めているということだと思います。
 近年の経営環境の厳しさに加えて、人口減少、少子高齢化の進展が先行きの不安を拡大させていますが、人々に支持されている限り商店街は存続して行くと思われます。
 それでは、人々に支持され続けるためにはどうすればよいのか。
 地域に密着した存在として、上滑りではない、原点に立ち返った見直しが必要ではないでしょうか。
(2010.9.16)
詩人・立原道造について
 7月14日の朝日新聞夕刊で、小さな記事が目に止まりました。{立原道造記念館 休館へ}と言う見出しで、9月26日まで開催されている特別展「立原道造が遺(のこ)したものたち 愛蔵品を中心として」の終了に合わせて休館すると言うもので、この記念館を支えて来た中心人物の逝去に伴う経営悪化が理由だそうです。
 将来を嘱望された建築家であり、青春の詩人と言われる立原道造は、わずか24歳と8ヶ月で、その生涯を終えたのですが、清純なイメージは多くの人に愛されてきました。
 かって、このコラムでも取り上げた事がある「ヒヤシンスの家」は、そのような人々によって、立原道造が夢に描いていた山荘のスケッチを基にして、さいたま市の別所沼公園に建設されたものであり、死後長い年月が経って実現したものでした。
 立原道造記念館は、東京都文京区の東京大学本郷キャンパスの弥生門のすぐ向かいにあります。
 こじんまりした建物の2・3階が展示室になっており、一人で静かに豊かな時間を過ごすにはうってつけの場所です。
 自身が描いた設計図、詩集、あるいは、これまでに催された展示会のカタログ等、立原を知るのに役立つさまざまな史料が展示されています。
   “どうぞ もう一度 帰っておくれ
     青い雲のながれていた日
     あの昼の星のちらついていた日・・・    (夏花の歌 その二)”

   “いま だれかが 私に
     花の名を ささやいて行った
     私の耳に 風が それを告げた
     追憶の日のように             (さびしき野辺)”

 このような清純な詩が世に出るためには、東京大学建築学科時代の親友の献身的な活動があった事も知りました。
 “そよ風をゼリー”にしたような心洗われるスポットが亡くなってしまう事に一抹の寂しさを感じています。
(2010.8.2)
新市庁舎の完成
 立川市の新市庁舎が完成し、5月6日から新庁舎での業務を開始しました。
 この新庁舎が出来るまでには、「新庁舎建設市民100人委員会」からの基本構想市民案が平成16年3月に提出されており、「新庁舎市民対話型2段階方式による設計者選定協議」によって設計者を選定するなど、立川市にとっては初めてといっていい本格的な市民参画が導入されています。
 私は、この新庁舎について3つの事を実現して欲しいと考えていました。
 1つは、市民自治の拠点となること。従来の庁舎は、殆どの人にとって事務処理のために訪れる“役場”でしかなかったような気がします。そうではなく、地域社会のさまざまな場面で歴史を創る舞台となるような場所になって欲しいと云うことです。
 2つめは、今後益々重要な役割を果たすことが求められる議会に関して、地方分権に形を与え、ローカルルールの制定をはじめとして、地域に適合した政策を創る場になって欲しいのですが、それにふさわしい空間をつくる事。それは、権威主義を排して自由で創造的な議論が出来る議場である事や、議員と市民とが一緒になってさまざまな協議が行い易くなっている事などです。
 3つめは、地域社会を創るにあたって必要とされる情報の収集・提供の充実を図ることです。
 そんな事を考えていたのですが、どんな庁舎が出来上がったのか業務開始直後に訪れました。全体としての印象は、少なくともどこにでもある庁舎よりは質の高い建物になっていると思いました。市民協働会議室、地域コミュニティ推進事務室も設けられています。
 中に入って感じたのは、カウンターや間仕切りなどに木が多用されており、コンクリートの冷たい感じがなく、親しみ易い事、あちこちにオープンなスペースがあり、テーブルと椅子が置いてあるので、休んだり、一寸した相談や打合せをするのにとても便利なこと、議場内の床がフラットではないが、それに近くなっているので、議員・市長部局職員の間の対話が行いやすいのではないかといった点でした。
(2010.5.18)
(株)環境開発センター時代の田村明さん
 田村明さんが(株)環境開発センター(代表 浅田 孝氏)へ入社されたのは、昭和38年の事です。長年に亘って自分の天職(Beruf)を見つけ出したい、総合的な仕事をしたい、それを35歳までに実現したいと思っていたそうですが、目標から1年遅れの36歳のときに一大決心をして転職されたのです。勤務していた日本生命は、生保業界のガリバーですか、(株)環境開発センターは、その2年後に私が入社した時ですら、浅田さん、田村さんを含めても総勢8人と言う小さな組織でした。
 それだけの障壁を乗り超えて共鳴させた、浅田さんの理念は素晴らしいものでしたし、一方、田村さんの決意も大変なものであったと思います。
 その浅田さんの理念とは、「環境」を開発することが重要である、そのためには総合化のヘッドクォーターが必要である、そのヘッドクォーターとなる地域開発専門機関として、(株)環境開発センターを設立すると言うものでした。
 田村さん自身も入社以前に、「これからの地域計画機関のあり方について」と言う論文を執筆されていますが、現在見ても全く古さを感じさせない内容のものです。

 オフイスは、銀座西2丁目にありました。世帯規模が小さいだけ、自由な雰囲気がありました。田村さんは当時住宅公団の山下公園アパートに住んでおり、そこから銀座まで通っていました。出勤は、午前中には現れると言う位でしたが、夜は遅く、徹夜する事も結構あり、そうでなくても、終電間際の退社というのは、ごく普通のことでした。
 仕事の進め方としては、議論する時間が多かったように記憶しています。余り広くはない作業室の真ん中に3×6尺の製図版が置いてあり、その製図版を囲んで、トレーシングペーパーの上にマジックで、丸を描いたり、線を引いたりしながら、コンセプトや計画の内容を固めていくと言った進め方でした。
 そんな風にして取組んでいた当時のプロジェクトとしては、パリの万博本部へ開催申請をするための大阪万博基本構想や、漸く大都市問題が注目を集め始めた時期で、朝日新聞で「爆発する都市」というタイトルで都市問題としては始めて、別刷りの特集を組んだ事があったのですが、その中の瀬戸内圏に関する構想策定を担当、また、はじめて外債(マルク債)を発行して事業を行った、堺泉北臨海工業地帯の環境整備計画などがあります。
 その中で、その後の田村さんの人生と深く関ってくる事になるのが、横浜市の将来都市像の策定です。この構想は、いわゆるスタティックなマスタープランではなく、現実の都市を動かしていくために、プロジェクト方式で行くと言う浅田さんの考えで、プロジェクト方式で組み立てられています。
 そのプロジェクトは、当初7つだったのですが、その後整理されて6大事業となり、横浜市のまちづくりの大きな柱になっていきます。この辺りの事を知っている人が段々と少なくなっていくのを寂しく思います。

 田村さんの人生の中で(株)環境開発センターの5年3ヶ月は、どんな位置を占めているのでしょうか。
 36歳で転進し、わが国ではまだ成立していない分野へ飛び込んで、いくら輝かしい経歴や豊かな学識があるとはいえ、未知の世界で手探りで進むのは容易な事ではなかったのだろうと思います。
 私には、(株)環境開発センターの5年3ヶ月は、都市プランナーとしての田村さんの青春時代であったように思えます。無我夢中で、計画技術を身につけ、多くの人達と交流し、そして横浜市の将来像に関するビジョンとともに、これら全てを持って横浜市へ入り、多くのまちづくりの花を開かせる、そのための自己形成の時代であったように思います。
 私もそのような田村さんの姿を間近に見ながら充実した時間を共有できた事を大変有難く思っています。
(2010.4.6)
都市政策プランナー田村明氏を偲ぶ
 ヨコハマのまちづくりで広く知られている都市政策プランナー田村明さんが1月25日に亡くなられました。83歳でした。
 田村さんは、東大建築学科を卒業後、東大法学部の2つの学科を卒業し、運輸省、大蔵省、農林省、労働省に入退職し、日本生命、わが国民間プランナー集団のはしりである環境開発センターを経て横浜市の職員になると言う多彩な経歴の持ち主でした。
 本人の語りによると、この遍歴は、自分の天職を探したい、それを35歳までに見つけたいと言う事によっていたそうです。その天職とは、総合性のある仕事と言う事であり、プランナーという仕事に賭けて36歳で入社したのが環境開発センターだったとの事です。
 長年の思いは、横浜市でのさまざまな政策の実現の中で、一気に開花するのですが、その様子は、「都市ヨコハマをつくる」(中公新書)、「田村明の闘い」(学芸出版社)などで詳述されています。
 55歳で法政大学へ転進されますが、まちづくりに対する情熱は最後まで失われる事はありませんでした。例年年賀状は出さずに年が明けて暫らくしてから寒中見舞いを出す人でしたが、今年の寒中見舞でも、「許されれば」として、取り組みたい2つのテーマが書かれていました。(続)
(2010.3.19)
「サザンスカイタワー」の意味
 JR八王子駅の南口に、地上41階、高さ158mの超高層建築「サザンスカイタワー八王子」が建設工事中です。先日棟上式が行われたというニュースが報じられていたので、見に行って来ました。これまで、駅の南口側は余り開発が行われていなかった為に、現在でも周辺一帯は低層の市街地が拡がっています。その中で、かなり離れた場所から見ても、この建物は群を抜いて高く、周辺を威圧しているような印象を与えます。
 ここ10年ほどの間、新自由主義と都市開発を不況脱却の手段とする事等によって、都市計画・建築に関する規制が大幅に緩和されて来ていますが、それに伴って建築紛争も多くなっているようです。特に超高層マンションの高さが周辺地区に与える威圧感が、紛争の大きな要因の1つになっている様に見受けられます。超高層建築を建てる事によって、本来ならば地域全体で共有すべき空間が、その建物によって専有化されてしまう等、いろいろな言い方がされています。 
 一方、これは都市のランドマークだと言う言い方もされています。それはそれで、一般受けはし易い表現だとは思います。しかし、超高層建築がヨーロッパの都市のランドマークとなっている教会の尖塔のように、地域の人々の気持ちを結び付ける役割を果たしているとは思われません。超高層建築に社会的統合を期待するのは無理な話で、所詮は、オフイスであり、住宅である訳です。従ってランドマークの含意は、立地場所を示している以上のものではなさそうです。
 パリで激しい景観論争を引き起こしたモンパルナスタワーが建設されたのは、1970年前後のことでした。近年の超高層建築があれほど激しい論争にならないのは何故でしょうか。東京とパリとの都市の成熟度が違うからなのか、都市環境に対するこだわり、寛容さと言った事に関わる人々の性格の違いなのか、単なる時代の変化なのか、何なのだろうとおもいます。
 この建築は、再開発組合が施行者である第1種市街地再開発事業として都市計画決定されたものです。従って、権利者や都市計画の決定に関わった関係者(住民も含めて)の間では、これで良いと言う合意が形成されている事になります。
 そうすると違和感、威圧感といったものは何処へ行ってしまうのでしょうか。
 都市計画を市民化する、市民感情を社会化すると言った事は、ここらから始まるのかも知れません。
(2010.2.3)
「東京白書III『石原都政10年の検証』東京自治研究センター編」
 この本は、石原都政10年は東京に何をもたらしたのかをテーマに、1年半に及ぶ研究会の検討の結果を取りまとめたものです。
 内容は3部構成になっています。第1部 石原都政10年の検証、第2部 石原都政における主な政策の検証、第3部 石原都政と政策評価、と続き、これに基本指標・分野別指標、石原都政関連年表が資料編として加わっています。
 第1部では、(1)石原都政の実績と負の遺産に関する基本的視点、(2)ポピュリズムとしての石原都政、の2つのテーマが取り上げられています。
 石原知事が高い支持率を維持しているのは、極右型、新保守型、タレント型のすべての条件を備えており、特に後2者の支持構造があると云う事だそうです。
 そして「表向きの「発想の斬新さ」や「改革の姿勢」にひきよせられた人々が一定数存在し、それが・・・高支持率に貢献した・・・」(P27)点など、なるほどと思います。
 第2部は石原都政に関する各論です。取り上げられているテーマは、都財政の展開、石原都政の福祉財政、石原都政の福祉政策、石原都政の都市政策、石原都政の産業政策、新銀行東京の検証となっています。
 私が執筆を分担した都市政策では、一見ニュートラルに見える環状メガロポリス構造のコンセプトから、国の規制緩和もあって新たな一極集中の動きが活発になって来ており、また都市空間の混乱が拡散しているのではないかと言った点を指摘しています。
 第3部は、政策指標を詳細に分析する事によって、東京都・都政の現状・推移を追って見るという大変貴重な作業の取りまとめです。
 日頃は、都政の動きを広く眺める事もありませんが、10年のプロセスをまとめて振り返って見ると、都市政策と広域行政のあり方について諸々感ずる所があります。
(2010.1.4)

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